INTERVIEW

「MONO」はなぜ世界で一番聴かれる日本のバンドとなったのか? その軌跡を紐解く。

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MONOというバンドを知っている人はどれだけいるだろうか?17年というキャリアを持ち、海外で最も聴かれている日本のバンドである。しかし、もどかしいほど海外と日本の認知度の差は著しい。

 

2000年に日本を飛び出し、アメリカでの活動をスタートしたMONO。絶望に包まれたニューヨークでの初ライブから、MONOを救ったメンバーの言葉、年間150本を越える怒濤のツアー。SNSもインターネットも普及していない時代に、MONOはどうやってその地位を気付いていったのか?

 

そんなMONOを、海外での活動をベースにしてきた彼らの歴史と、今回の『SYNCHRONICITY’16 – After Hours -』に焦点を当て、シリーズで紐解く。

 

 

インタビュー・テキスト・編集:麻生潤
写真(モノクロ):MUTO
写真(カラー):Teppei

 

 

 

不安はあったけれど、それよりもやらなきゃっていう使命感の方がすごかった。

 

麻生:
まずは後藤さんのお話から聞かせて下さい。1999年にMONOが誕生するまで(高校時代やMONO以前)はどんな時代を過ごしていたんですか?

 

後藤:
僕は島根県の出雲市の出身なんだよね。ライブハウスもないところで、喫茶店に集まって高一の頃から自分のテープを作って売ってたの。照明とかもないから自分で作って、プリントゴッコみたいなのでチケットを作って、最終的に1000人くらい集めてた。オムニバスを出して、ツアーもやってって、そんな風に高校のときにもうインディを興していて。

 

そんな中で広島からもバンドを呼ぶようになって、自分も行ったりする中で、その広島のバンドと一緒に東京に出たの。それからメジャーでデビューすることになるんだけど、やりたくない仕事もたくさんやってさ、プロってなんなんだ?って問いにぶつかったんだよね。リクエストに答えるのがプロなのか?って。でもそれがプロなんだとしたら、俺はプロじゃなくてもいいって思ってさ。それで二度と俺はプロの人とはバンドをやらないって決めて、スタジオの張り紙とかプレイヤー(音楽雑誌)とか3ヶ月間電話しまくって、最終的にできたのがMONOだったの。

 

麻生:

え、メン募から集まったんですか?

 

後藤:

いや、メン募は誰もヒットしなくて(笑)。結局友達の紹介とかでたくさん会って、巡り会ったのが今のメンバーだった。当時はやりたくないことをやれば音楽では食べれる、やりたい音楽をやるんだったら食べれなくても良い、その2択しかなかった。

 

俺は食べれなくてもいいし、風呂なんかなくてもいい、四畳半でもいい。でも残りの人生を自分の好きな音楽しかやらないって決めた日があって、そこがMONOの始まりなんだよね。それはすごい怖いことでもあったけれど、そこで腹をくくったんだよね。1999年の末にメンバーが固まってMONOができて、2000年にニューヨークに行った。
 

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麻生:

日本での活動を飛ばして海外に?メンバーを集める前から海外でやるって決めてたんですか?

 

後藤:

そう、それはもう大前提。海外でやるために日本で集めたんだよね。

 

麻生:

でも当時は前例もないしインターネットも発達していない。今とは比べものにならないくらい大変だったと思います。どうやって活動を始めたんですか?

 

後藤:

海外は友達が少しいたくらいで、当初はFAXと郵便だったんだよね。こういうバンドやるから、もしよかったらブッキングの手伝いをしてくれないか?って。で、六本木でレーベルとブッキングエージェントが載ってる本を買って、海外のレーベルに手紙を書いて、デモをものすごい数送ったんだ。とにかく英語も話せないし、どうやったら海外でできるのか、自分たちのCDが世界で出せるのか、ツアーができるのかとか、全然分からなくて。自力でやるしかなかった。それでも出雲から東京へ来るより簡単だったかな。

 

麻生:

まさにインディペンデントですね。出雲から東京へ来るより簡単だった理由は?

 

後藤:

ライブハウスも録音スタジオも全くないようなところで自主制作で録音してさ、1000人集めてって、もう全部自力でやってってことに比べれば。そういう中で東京へ出て、デビューして、プロミュージシャンになって、日本全国をツアーするということを昔やってきたじゃない。そういうのに比べたら、日本からニューヨークへ行くことなんて全然大したことなかった。だってさ、もう向こうには受け入れてくれるだけのものがあるんだもん。

 

麻生:

でもアテもなく海外へ行くなんて不安だらけじゃないですか。

 

後藤:

うん、これでダメだったらどうなっちゃうんだろうっていう不安はあったけれど、それよりもやらなきゃっていう使命感の方がすごかった。メンバーにはもう結成したときから海外で活動するバンドだからって言ってた。結成当時はパスポートすら持っていないメンバーもいたんだけどね(笑)。MONOは今年17年目なんだけど、プロとか関係なく一から一緒に経験を積み、同じものを見て、感じて、助けあって、全員同じラインでやってこれたから今があるんだよね。
 

 

 

その言葉があったからこそ今のMONOがある。

 

麻生:

海外で活動していこうとしているのにそれが初海外ってすごい(笑)。ニューヨークに出てからの活動はどうでしたか?

 

後藤:

最悪だったよ!僕たちは楽器とかペダルとか売れるものはもうなんだって売ってさ、何とか旅費を作ってニューヨークに行ったんだよね。で、最初はマーキュリーラウンジっていうマンハッタンのベニューでヘッドライナーよりずっと前に演奏したんだけど、僕らを観てくれたお客さんはたったの5人。色んなもの売っぱらって何十万も作ってニューヨークに大きな夢を求めてきたのにさ、5人しかお客さんがいないんだよ!それはもう本当に辛かった。

 

で、その5人を前に45分間演奏してさ、ライブの後にメンバーみんなでご飯食べに行ったんだけどさ、みんな結構食べるんだよ(笑)。でも僕は、もうこの先どうするんだってことばかりで、スープひとくちも喉を通らなくて、もう売るものもないし、取り返しもつかないし、どうしたらいいんだろう?って。ニューヨークに行ったら何かが変わるかもしれないっていう思いがあっても、現実は惨憺たるものだったんだ。
 

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麻生:

でもそれでもMONOは日本に帰ることなく乗り越えていく。それって相当の思いだったと思うんですけど、どう乗り越えたんですか?

 

後藤:

その初ライブの日に、ソーホーのホテルに泊まったんだけど、ベランダでメンバーと話しててさ、ニューヨークまで来てもらったのにこんな人数でごめんねって話をしたら、メンバーが「そんなもんですよ、大阪でやっても5人は5人でしょ。だって、誰も知らないんだから。」って言ってくれたんだよね。それに「やり続けるしかないんじゃないですか?」って。それは本当に大きくて、その言葉があったからこそ今のMONOがあるんだ。

 

そしてもう、そこからは本当に果てしなかった。CD送って、色んな人から手紙もらって、でほどなくして、ジョン・ゾーンのザディックっていうレーベルと契約して、それが世界リリースになってファーストアルバム「Under The Pipal Tree」になるんだけど、少しずつライブに観に来てくれる人がブッキング手伝えるよって言ってくれたり、色んな協力をいただくようになった。そして、そこからは車の中で寝るような怒濤のツアーを積み重ねて行ったんだよね。
 

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ひとつひとつのライブが命がけだった。僕たちはライブ中に弦が切れることさえ本当に嫌だっていうすごいテンションの中でやってたんだ。

 

麻生:

その思いと行動力、信頼関係は本当すごいです。その中で印象的なエピソードや具体的な経験を教えてもらえますか?

 

後藤:

色んな助けがあったんだけど、ジム・オルークがニューヨークで一緒にやってくれたり、ギャラの半分を僕たちにくれたりしてくれてさ、それは本当にありがたかった。今でもジム・オルークには借りがあるんだよね。また、ニューヨークを始め、アメリカの人たちが僕たちのライブを観て色々助けてくれた。そうしてると、やる度に動員が増え、さらに色んな人がサポートしてくれたりするんだよね。本当に奇跡の連続。ロックの色んな経験もしてきたよ。車の中で寝るツアーも、ファイブスターのホテルに泊まることも、色々経験できた。

 

麻生:

アメリカでそんな活動やってきた日本人ってどれだけいたんだろう。本当果てしないですね。そのアメリカでどんな思いで活動し、どういう風に広がっていったんですか?

 

後藤:

ヘッドライナーってさ、楽屋の中でフルーツがあって、水もアルコールももう、色んなものが用意されてある。だけど、次のバンドは水だけしかない。そして、僕らみたいなオープニングのバンドは楽屋さえない。でも夢があるんだよ、絶対に。実力社会なの。アメリカって比べものにならないくらい星の数程バンドがいる。で、その中で僕らがいる訳なんだけどさ、ヘッドライナーの大きな名前があって、その次のバンドは小さめな表記、そして僕らのそのときの表記なんて本当にちっちゃくって見えるか見えないくらいかの表記なんだよ(笑)。だけど、僕らはずっとあの大きな表記になるのをイメージしてたし、あの楽屋でヘッドライナーとしてやるっていう目的があったんだよね。

 

でも始めた頃なんて今みたいにツアーマネージャーがいてっていうんじゃないから4人でやるしかない。だから、ひとつひとつのライブが命がけだった。僕たちはライブ中に弦が切れることさえ本当に嫌だっていうすごいテンションの中でやってたんだ。日本から来てさ、取り返しがつかないからさ。でも良いライブさえ見せれば次につながるっていう、そんな中でやってこれたのって幸せだった。アメリカは本気で次につながっていくんだよね、結果を残せば。動員が明らかに増えていくし、口コミもすごくて。
 

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麻生:

その頃インターネットもないのに口コミってどういう風に広がっていったんだろう?

 

後藤:

僕らは本当にものすごい数のツアーをやってたからね。7ヶ月くらい常に出ている状態とかさ。僕らのウェブサイトでツアーってメニューがあって、年次ごとに別れてるんだけど、それを見ると鳥肌が立つくらいずーっと1月から12月くらい旅に出てるんだよね(http://www.monoofjapan.com/jp/tour.php)。まさに自分の人生の旅って感じだよ。肉体は年老いていくから今はもうできないこともあるけれど、そのときそのときを分かって全力でやってた。

 

 

 

耳が爆発するくらいな体験と映画並のドラマと感情を持ったものすごい無声映画のような力を持った音楽をやりたい、ジャンルなんて問わないって考えるようになって、もう本当にオリジナルになっていった。

 

麻生:

そんなMONOの活動を通して、世界でもMONOはポストロックで特別なポジションを築いています。僕はオリジナリティ溢れるMONOの音楽はポストロックにとどまらないMONOオンリーの世界観があると思うんですが、ポストロックとしてとらえられたりすることについて後藤さんはどう思いますか?

 

後藤:

ポストロックというジャンルが出来上がるよりずっと前に、ケンタッキー州ルイビルという所に「スリント」というすごいクールなバンドがいて、そのバンドはポストロックの前身と言われているバンドで、それこそ、スリントに影響を受けた「モグワイ」がイギリスから出てきて、カナダからゴッドスピード・ユー!・ブラック・エンペラーが出てきて、アメリカからエクスプロージョンズ・イン・ザ・スカイが出てきて、アイスランドからシガーロスが出てきて、じゃ、アジアで一番有名なインストバンドは?って言ったらMONOになっちゃうっていうところだったと思う。

 

そんな風にポストロックって言うよりも、各国のインストゥルメンタルなカラーを持ったバンドって感じなんだよね。ある人から見たらこういうインストゥルメンタル・バンドってポストロックとしてひとくくりにしがちだけど、それってバッハとベートーベンとモーツアルトが一緒だって言ってるようなものと変わらなくて、各国、各アーティストの色合いがあるんだよ。

 

麻生:

確かにその頃の個性的なインストゥルメンタル・ミュージックをポストロックっていうブームで語ろうとしたのかもしれないですね。

 

後藤:

うん、本当そうなんだよね。変な話、グランジが流行ったときに、ニルヴァーナだったり、パールジャムが出てきたりってあったけどさ、グランジって3年半くらいしか持たなかった。僕らが活動し始めて数年経ったら、まさにポストロックっていうブームが来てさ、あ、これはいかんと、これは3年半でグランジのように消えてなくなるかもしれないと。だから、ポストロックというものではダメなんだという認識を2003年くらいに持ったんだよね。
 

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麻生:

ジャンルやブームに対する危機感を感じたということ?

 

後藤:

うん、そうだね。当時ポストロックって静かなところからダーンって大きくなる音楽が主流だったんだけど、だんだんそこからそれぞれが手法を考え始めるんだよ。トータスとかもいたし、どんどん進化して、踊れるポストロック、マスなポストロックなど色々細分化していくんだけど、僕が思うに、静かなパートからラウドなパートに行かないように作ることが新しいとか、オープニングからノイジーに行くことが新しい形とか、みんな悩んでいた時期があるんだよね。

 

でも新しくて斬新でハードコアなスタイルを持った音楽がその頃ポストロックと呼ばれるものだったのに、斬新なことを掲示したら、斬新な普通の音楽になっちゃって(笑)、その斬新というワナにハマって、形式の中でどうやったら新しい音楽が作れるんだっていうことを考えて、頭でっかちな音楽になっていってた。そういうのを見て、あれ、なんか違うなって思って。

 

麻生:

斬新な普通の音楽っていい表現ですね(笑)。でも言ってること分かります。

 

後藤:

で、結局僕らの音楽って何だろうって、17年経って見渡してみると・・・。メタルは泣きでさ、ハードコアは叫び、パンクは生き方だったりっていうのがあるんだけど、そういうあらゆる要素やアイデンティティを含んだすごい音楽は何かって考えていくと、音を追いかけていくんじゃなくて、生き様そのものがオリジナルであるってことが大切で、他人がどうであれ自分には関係ないって言って、自分がもともと持っていた『どうしてもこういう音楽をやりたい』っていう気持ちや感覚のようなものなんだよ。

 

2003〜2004年くらいは、自分が信じる音楽さえあれば俺はいいってフォーカスして考えた時期だった。そこからはもうジャンル関係なしに、サウンド的に言えば、耳が爆発するくらいの体験と映画並のドラマと感情を持った音楽をやりたい、ジャンルなんて問わないって考えるようになって、もう本当にオリジナルになっていった。
 


麻生:

確かにMONOの音楽は完全にオリジナルだと思います。でもどこか日本的な要素も感じます。世界で音楽を伝える上で、日本的な感覚を意識したことは?

 

後藤:

そうだね。イントロからしてMONOの音楽はMONOでしかない。 例えば、イギリスでMONOの音楽を演奏すると、おそらく日本の愁い(うれい)とか、儚さとか、そういう日本ならではのものだっていう見方もあると思う。だって、イギリスもアメリカも自分たちの国にあるものは必要としてないからね。 それぞれがそれぞれにないものを求める。それは無意識レベルで、例えば着物を着るとか、雅楽のようなものをやろうというものではなくて、曲そのものが既に完全であるはずだと思っている。日本で育ったからにはそれが自然と昇華されているものだってね。本当に好きなものをやれば、日本人の血を持った音楽であるって。自分たちのハートにくるかこないかが大切。それを貫き通してきたんだよね。

 

 

データ元(Last.fm Scrobble 10年のあゆみ 2002年 – 2012年):
http://www.last.fm/ja/bestof/10years/timeline

 

 

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INTERVIEW

『SYNCHRONICITY’18』出演オーディション突破アーティスト特集:「Opus Inn」インタビュー

Opus Inn

空間をデザインするかのような幻想的かつ色彩豊かなサウンドを放つOpus Inn。Vocal.堀内とGuitar.永田の2人で構成される彼らは、自分たちの存在を音楽プロジェクトであると話す。その真意とは一体何なのだろうか。楽曲の持つミステリアスな雰囲気。真っ直ぐな音楽への思いをVocal.堀内の言葉で語ってもらった。

 

 

インタビュー・テキスト:中村圭汰
編集:麻生潤

Supported by 基本 CMYK

 

 

 

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ー 出演決定おめでとうございます。多数の応募の中を勝ち抜いての出演となりますが、今の気持ちを率直に教えてください。

 

堀内:
まずはとても嬉しいです。感謝です。

 

ー 今回のオーディションで唯一、ユニットとして出演権を獲得した訳ですが、ユニットという形に対してこだわりみたいなものはありますか?

 

堀内:
Opus Innは、バンドとユニットの間、あるいは2人のプロジェクト的なものだと思っています。

 

ー 2人のプロジェクト。その部分についてもう少し詳しく教えてください。

 

堀内:
そこまで深い意味ではないんですが(笑)単純に僕らはいい音楽を作りたい。それだけなんです。で、そのいい音楽を作る為に、今の僕たちにとってはこの形だった。バンドという形にこだわりすぎてしまうと、どうしてもそのフォーマットに縛られて、自由度が奪われてしまうように思うんです。

 

 

ー ライブではシンセザイザーとベースがサポートとして加わり、4人体制で行っていると思いますが、これはあくまでもライブ仕様ということですか?

 

堀内:
そこにも特に縛られていないですね。ただ、ライブという観点で見ると、やっぱり生音の強さはあって。ボーカルとしても生音に乗せて歌う方が気持ちいいですからね。なので、今後はドラムも生音になるかもしれないし、パーカッションが入るかもしれない。そこは自由に、フレキシブルにやっていきたいなと思っています。とにかくいい音楽を作れれば、形式とか人数とかは気にしていないです。

 

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ー なるほど。プロデューサー的な視点も持っていて、いい音楽を作る為に何が必要か、それに必要なものが明確になってから、編成や人数を考えていくという。堀内さんの言うプロジェクト的なものという意味が分かってきた気がします。ちなみに今、お2人は遠距離状態で活動をしていると聞きしましたが、曲はどうやって作っているんですか?

 

堀内:
今はトラックをデータで送り合って作っています。

 

ー 今の時代を反映した作曲方法ですね。そんな制作活動はOpus Innの持つ先進性の源流も感じます。今回、シンクロニシティを応募するに至った経緯を教えてください。

 

堀内:
最初は、友人がこのオーディションの存在を教えてくれて。元々、シンクロニシティの存在は知っていたので是非出てみたいなと思い、応募しました。

 

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ー 過去に他のオーディションに応募したことはありますか?

 

堀内:
あまり多くはないですが、応募したことはあります。

 

ー 応募の決め手ってどういうところでしょうか?

 

堀内:
そうですね。まず第一に、沢山の人に観てもらえる場であるかどうかは重要です。まずは自分たちの音楽を聴いてほしい、そう思っています。ただ、その一方で、自分たちのカラーだったり、個性に合ったフェスに出たいという思いもあります。自分たちの軸としてぶらせないところもあるので。

 

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ー なるほど。その中で今回出演する『SYNCHRONICITY』は、Opus Innのカラーにぴったりだと思います。ジャンル的というより、いい音楽を届けたいという熱意を感じます。今回『SYNCHRONICITY』でリスナーとして気になるアーティスト、観てみたいアーティストがいたら教えてください。

 

堀内:
DMBQ、渋さ知らズオーケストラ、WONKは観たいですね。

 

ー Opus Innは、今回Gladのステージのトップバッターですね。何かイメージは有りますか?

 

堀内:
まずはトップバッターとして、いいスタートを切れるようにしたいですね。そして、もちろん僕らを初めて見る人にインパクトを与えたいなと思います。第一印象としてお客さんが忘れないようなライブに出来たらと思います。

 

ー それでは、最後にライブに向けて見所を教えてください。

 

曲の良さと音源とは違った生演奏としての僕らを見ていただけると嬉しいです。とても楽しみです!

 

 

Opus Inn プロフィール

Vocalの堀内美潮とGuitarの永田誠による音楽プロジェクト。共通のルーツである60年代からのR&B、Soul、Rock、AOR、また近年のR&B、Electronica、Hiphop等あらゆるジャンルを昇華させた楽曲が注目を集め始めている。2016年頃から2人でトラック制作を開始し、 2017年からSoundCloudにて楽曲を公開。サポートメンバーを含めた構成でのLive活動を行っている。2017年12月に1st EP『Time Gone By』をリリース。

Opus Inn

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